• 中国伝説上の三皇の一人である伏羲(ふっき)は燧人(すいじん)氏に代わって帝王となった。伏羲は、
    陰陽(おんよう)の哲理を極め、八卦(はっけ)を創造し、姓(せい)氏(し)を定め、婚姻を制度化し、
    龍をトーテムとし、農耕を興し、天子(てんし)を社会の要とする中国古代文明を築いた。
    中華民族の祖として崇められている。
  • 伏羲の末子の名は栿(ふく)と言い、隃伯(ゆはく)と号した。
    栿は黄帝(こうてい)を助け、手柄を立て、その功により爵位と領地および阮姓(げんせい)を賜る。
    賜った領地は崑崙大夏(こんろんたいか)の西にある隃邑(ゆゆう)で、ここが阮姓の発祥地である。
  • 殷(いん)(商(しょう))王朝(BC1600年~BC1046年)の頃、阮姓の末裔である阮髠(こん)は、
    殷朝廷(ちょうてい)に手柄を立て、西都伯侯(さいとはくこう)という爵(しゃく)と領地を賜り、これを代々受け継ぎ、
    賜った領地は阮の姓を以って阮という国になった。
    阮の国の人々は国名を姓として名乗った。これが我が阮姓の元となる。
  • 紀元前770年頃(歴史上東(とう)周(しゅう)やがて春秋(しゅんじゅう)時代が始まる頃)、阮の国は秦(しん)の国の
    領土拡大に伴い秦の従属国(じゅうぞくこく)と成った。
    阮の国の主である阮肥子(ひし)は秦に仕えずと誓い、領地を棄て、中原(ちゅうげん)の
    陳留郡尉氏(ちんりゅうぐんいし)に逃げ、出仕することなく隠れ住んだ。
    彼は尉氏阮姓(いしげんせい)の祖となった。
  • 激しい世の中の移り変わりを得ること数百年(春秋(しゅんじゅう)、戦国、秦(しん)、漢(かん)の時代)を経て、
    阮一族は次第に強大になり、陳留郡の一大名門豪族(いちだいめいもんごうぞく)となった。
  • 阮氏の子孫は陳留(ちんりゅう)を堂号(どうごう)とした。
    陳留郡に言う「陳留堂」及び「竹林堂(ちくりんどう)」である。
    漢(かん)・魏(ぎ)の時代には優れた人物の輩出により、尉氏阮姓一族(いしげんせいいちぞく)の評判は
    大いに高まり、歴史上の名門となる。
    歴代、様々な人物が傑出(けっしゅつ)したが、その代表格には次の様な人物がいる。
  • 周(しゅう)代の東平侯阮庄(とうへいこうげんしょう)、秦代に匈奴(きょうど)を震え上がらせた
    大将軍阮翁仲(げんおうちゅう)、東漢(とうかん)の著名な文学家で、「建安七子(けんあんしちし)」の一人
    阮瑀(う)、その息子で魏晋(ぎしん)の著名な文学家、五言詩(ごごんし)の祖、「竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)」
    の頭(かしら)である阮籍(せき)、その甥で著名な音律(おんりつ)学者で「竹林の七賢」の一人阮咸(かん)、
    河清太守(かせいたいしゅ)の阮武(げんぶ)、目録学(もくろくがく)の祖阮孝緒(こうしょ)、南朝(なんちょう)の
    冒国(ぼうこく)(福州)郡守(ぐんしゅ)阮弥之(やし)三兄弟、南宋(なんそう)の将領(しょうりょう)阮思聡(しそう)、
    明(みん)代の総戎(そうじゅう)阮貴卿(ききょう)、清朝體仁閣大学士(しんちょうたいじんかくだいがくし)、
    太博(たいはく)の阮元等(げんとう)である。
    ベトナムでは初代国家主席ホーチミン(本名、阮必成(グエンタトタイン))、
    6代目国家主席阮明哲(グエンミンチェット)、6代目政府総理阮晋勇(グエンタンズン)、
    南ベトナム大統領阮文紹(グエンバンチュー)、副大統領阮高祺(グエンカオキ)等である。
  • 魏晋(ぎしん)の時、尉氏阮姓は前後して三つの流れに分かれ、大規模な移動を行った。東南の流れは
    河南(かなん)から当涂(とうと)を経て、長江(ちょうこう)(揚子江(ようすこう))の左右の岸、会稽(かいけい)、
    閩(びん)、南粤(えつ)、香港、台湾。明朝の時代には日本(沖縄)及び、東南アジア、欧米等の地に移った。
    西の流れは四川省(しせんしょう)の西蜀(しょく)を経て、湖広(ここう)、貴州省(きしゅうしょう)黔(せん)、
    雲南省(うんなんしょう)滇(てん)、広西省桂陵(こうせいしょうけいりょう)を経て安南(あんなん)(ベトナム)
    に到った。東北の流れは山西省晋(さんせんしょうしん)、河北省冀(かほくしょうき)、
    山東省(さんとうしょう)斉(せい)、遼(りょう)寧省遼(ねいしょうりょう)等の地に移った。
    千百年の間に阮姓はあまねく全国および世界各地に居住している。彼らは終始(しゅうし)陳留の尉氏という
    輝かしい歴史を一族の歴史に記載し、先祖を敬い、根を想い、代々伝え続けている。
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