• 16世紀後半、琉球王国の大交易時代は終焉を迎えていた。1570年、シャムへの遣船が東南アジアへの最後の
    派遣となり、その後は中国への二年一貢の進貢と日本との貿易を細々と続けるだけとなった。
    冊封の際の貿易でも衰退していった。1579年、尚永(しょうえい)王の冊封副使謝杰(しゃけつ)は、
    琉球での貿易について、「尚清(しょうしん)代(1534年)は大いに利益があったが、尚元(しょうげん)代(1561年)、
    尚永(しょうえい)代(1579年)と利益がなくなった。外国船が琉球にこなくなったからだ」と記している。
  • 1606年の尚寧(しょうねい)王の冊封使夏子陽(かしよう)は、久米村について明初渡来の36姓は、衰退して今では
    僅(わず)かに、蔡(さい)、鄭(てい)、林(りん)、程(てい)、梁(りょう)、金(きん)の六家を存するのみとなり、
    その居住地たる栄中(えいちゅう)(久米村)も半ば廃墟となっている。なんとも嘆かわしいことだと記している。
  • 1600年前後の「歴代宝案」では、進貢使節名に夏子陽のあげた「程」姓もすでになく、
    1620~1630年頃の「久米村日記」は久米村の人口を「…老若男女あわせて三十数人…」と記しており、このころの
    久米村の衰退は明らかである。その原因は、端的にいえば久米村人であることのメリットが失われていったからで、
    琉球国の貿易の不振、琉球の将来に対する不安が、彼らをして琉球を去らしめ、久米村を棄(す)てさせたのである。
  • そういう時代背景に、阮國は、1594年路に迷った貢使の菊寿(きくじゅ)らを、命をうけて琉球に送り届けていた。
    1600年にも帰路を迷った貢使の蔡奎(さいけい)らを、毛国鼎(もうこくてい)とともに琉球に送り届けた。
    琉球船がたびたび航路を失う、誤って漂着するということは、航海技術の低下であり、先導者のいないことを意味していた。
  • 琉球国王尚寧は、「洪武(こうぶ)・永楽(えいらく)の間に下賜された36姓が衰退して人を欠き進貢も
    おぼつかなくなっているので、新たな36姓の下賜と琉球国の通事等として進貢往来に従事している阮(げん)・
    毛(もう)姓の琉球入籍を請う」と願い出、複雑な明朝の事情もあったようであるが、1607年、阮・毛二姓の琉球入籍は
    黙認となった。
  • 阮國・毛国鼎の琉球入籍は、黙認となったが、冷や汗ものだった。琉球国王は阮・毛がすんなりゆけば、
    阮明(げんめい)、王立思(おうりっし)らの入籍許可願いも続いたかもしれないが、それはついに願い出ることも
    なかった。またその後の入籍組みの陳(ちん)(華(か))、楊(よう)(明州)らについても願い出ることなく、
    既成事実を積み重ねることになった。
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