久米阮氏記念誌 田名真之氏寄稿文より

始祖阮國(しそげんこく)はもと福建省漳州府龍渓(ふっけんしょうしょうしゅうふりゅうけい)県の人である。
父母は不詳、室(妻)は若狭町の菊寿才府(きくじゅさいふ)の女(むすめ)の真那武樽(まなぶたる)とあり、
琉球に来てからの結婚となる。子は一男三女があるが、第一子の生年からすると、結婚時、
40才を超えていたことになる。郷里の龍渓に妻子があったかどうか「家譜」等では全く触れられておらず、不明である。

中国・明王朝神宗(みんおうちょうじんそう)皇帝 万歴(まんれき)22年(1594年)、
琉球国の進貢使(しんこうし)の菊寿(きくじゅ)らが、福州に行こうとして航路を誤って浙江(せつこう)に漂着した。
巡撫(じゅんぶ)(福建の役人)の金学曾(きんがくそう)が朝廷に報告したので、阮國を遣わして一行を護送して
国に送り届けた。これは阮氏が中山に到ったはじめである。

万歴28年(1600年)、琉球の長史(ちょうし)の蔡奎(さいけい)等は、表文(ひょうぶん)を
捧じて請封(せいふう)(世子(せいし)尚寧(しょうねい)の冊封(さっぽう)を請う)した。
奎(けい)らは帰国の際、路を誤り、福建衙門(がもん)(福建の役所)に援助を願い出た。このため、
阮國と漳州人の毛国鼎が遣(つか)わされて、蔡奎等を琉球に送り届けた。
これは阮國が中山に到った二度目のことである。

万歴30年(1602年)、接封(せっぽう)(尚寧王の冊封使を迎える)のために阮國は都通事(とつうじ)と
なって福建に赴いた。同34年(1606年)冊封正使(せいし)の夏子陽(かしよう)、
副使(ふくし)の王士偵(おうしてい)に従って琉球に戻った。

万歴34年(1606年)、阮國は冊封使を護送する正議大夫(せいぎたいふ)となって福建に赴いた。
翌35年、琉球国に戻った。

万歴35年(1607年)、阮國及び同郷人毛国鼎の二姓の久米村入籍が許可される。
西原間切(にしはらまぎり)の我謝地頭職(がじゃじとうしょく)を拝受(はいじゅ)した。

天啓7年(1627年)、知行高(ちぎょうだか)20石(こく)を恩賜された。

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